2017年10月23日月曜日

遁世者の戯言

美醜の優劣を決めるのは、空虚である。
例えば文学は、美が優れていて、醜が劣っているとは概して無い。
坂口安吾の『白痴』は醜い生活史だが、これが頗る優れているのは周知のことだろう。

私は、時代の、その騒がしい襞をひとつひとつ剥がしていき、時代の本質を凝視したい。
それを思うままに書き出してみると、だいたいが強烈なひと刺しをいただく。
「これは、太宰の『鶴』の様だね」と。
地獄の季節よろしく、言葉の錬金術とはよく言ったもので、現代の流行作家は富を得、一方の私は日銭にも成らぬ文を書いては、赤面している。

例えば斯様に。
【私は遁世が天職であるため、譫言に花咲かす獣たちを尻目に、「愚者とは我」とひとり語る。
ほどなく神が目を腫らし、大粒の涙が降る。獣たちは雨宿りの為、散って行った。
私は『ぽつねん』として全てを洗い流した】
と愉悦式の陶酔を撒き散らす、宿酔の極みである。

私は間違えて、小説家に成ろうとした。成ろうとしている段階で失敗なのだ。
小説家は望まざるとも、小説家に成っているものなのだ。それが才というものだ。
私がどれだけ文学に焦がれようと、文学は何も答えてはくれなかった。
これこそが真の『ぽつねん』であろう。

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